2024年


ーーー8/6−−−   ヤバい居酒屋の思い出


 
会社勤めを始めた最初の4年間は、会社の独身寮に住んでいた。寮は住宅街にあったが、バス停の辺りを中心に、料理屋や居酒屋などもちらほら見られ、寮生の行きつけの店などもあった。

 そんな居酒屋の一つに、寮生がほとんど近寄らない店があった。その店は、いかにも古びた感じの安価な飲み屋で、職人や土木作業員といった風情の人たちがたむろしている、ガラの悪い店だった。何かトラブルに巻き込まれそうな不安があり、寮生は敬遠していたのである。

 寮生の友人の中に、そういう場所が似合っているキャラクターの男がいて、誘われて一緒に行ったことがあった。私としては、怖い物見たさの気持ちもあった。

 店の中に入ると、ダボシャツにステテコ、雪駄をはいて、五分刈りの頭に捩じりハチマキといった姿の、いかにもそれらしい、日焼けした男たちが溢れていた。安物の椅子とテーブルに陣取って、大声でわめきながら、ホッピーのジョッキなどをあおっていた。まさに騒然とした雰囲気だったが、中には職人の親方といった様子の物静かな初老の男性を、若い子分らが囲んで、「お流れ頂戴いたしやす」などとやっている光景もあった。

 店の隅の高い所にテレビが据えられていて、その時はたまたま大相撲をやっていた。取り組みの結果に、過剰に反応しながら、男たちのメートルは上がって行く。贔屓の力士が勝って手を叩く者がいれば、反対に悔しがって毒舌を吐く者もいる。次第に険悪な、恐ろしい空気を孕んできた。  

  その日は小競り合いを目にすることも無かったが、友人の話によると、喧嘩沙汰は日常茶飯事だったらしい。些細な事で衝突し、「なんだと、このやろう!」、「ふざけるんじゃねえ!」などと声を荒げて立ち上がり、掴み合いになるのを周囲の者が取り押さえる。そういう事が、しょっちゅうあったようである。 

 「そういう時、面白かったのはですね、」と友人は言った。カウンターの向こうに構えていた店の女将。と言ってもだいぶ年増だったようだが、目の前で繰り広げられている喧嘩沙汰には目もくれず、悠然と煙草をふかしながら、遠い所を見るような目つきで、涼しい顔をしていたそうである。客も客なら、店も店で、ずいぶん年季が入ったものだったと、友人は語った。




ーーー8/13−−−  登山と野菜


 夏山が最盛期を迎えている。ここ数年、すっかり登山から遠のいている私だが、時折過去の山行を懐かしく思い出したりする。いやむしろ、過去の記憶が美し過ぎて、今では山に向かう気がしないのかも知れない。登山をめぐる状況は、40〜50年前とは大きく変わっている。現在の登山ブームは、山に詩情を求めた世代にとっては、いささか賑やか過ぎる。それに加えて、私自身も歳を取って、若い頃のような登山は、もはや出来なくなっている。

 登山ブームを支えているものの一つが、登山用品の進歩だろう。20年近く前だが、松本の登山用品店へ行って、店員に「網シャツはありますか?」と聞いたら、「それって何ですか?」と聞き返された。私が登山を始めた頃は、下着は網シャツと決まっていた。それが今では、高性能の化学繊維のシャツに取って代わられている。

 登山靴は、昔は革製だった。私も山岳部の頃は、夏用と冬用に、一足ずつ革製登山靴を所有していた。今では、山の上で革の靴を見かける事は滅多に無い。主流は化学繊維かプラスチック製である。新素材の靴は、軽量かつ性能が良い。私も今では、そのような登山靴を使っている。

 食べる物も、今ではインスタント食品が豊富である。簡単に調理できて、失敗が無く、味も良い。しかも軽量コンパクト。昔は、夏山の合宿であれば、生米と、ジャガイモ、玉ネギ、ニンジンなどの野菜を、丸のまま持って登った。動物性たんぱく質は、ベーコン、干魚と魚肉ソーセージ。生の食材は、木陰の涼しい場所に置いたり、雪渓の雪の中に埋めたりして保存した。二週間に渡る登山の食料は、それだけでかなりの重量になった。

 食材の素朴さだけでなく、調理の方法もいたって普通のものだった。米を研いで、鍋で炊く。野菜の皮をむいて切る。味噌を溶いて汁を作る。そんな調理は時間がかかり、時には失敗する事もあった。時間がもったいない登山で、こんな事をやっていては、現代の登山者から見れば、非能率的だと感じるかも知れない。その当時は、他に手段が無かったのである。しかし今思い返せば、この非能率さが、バカバカしくも懐かしい。不便だが楽しい、手作り感覚の山の暮らしだったのである。

 ところで、山の上での食事に関し、印象に残っている事がある。それは、野菜の大切さである。入山して数日たち、疲労が蓄積してくると、野菜を強く欲するようになるのである。肉野菜炒めなどは、夕食の人気メニューだったが、当初は肉を取り合うようにしていた部員たちが、しばらく日が過ぎると、野菜の方を好んで食べるようになる。私も普段から肉が好きで、野菜などには無関心だったが、日が経つにつれ、肉には目が行かなくなり、反対に野菜を食べたくなった。これは意外な変化であった。疲れてくると、体がビタミンやミネラルを求めるようになるのである。

 これに関連して、ある話を思い出した。黒部渓谷に入ってイワナを釣り、それを燻製にして下界に下し、販売することを生業にしていた職漁師から聞いた話である。山に入っている期間の食料は、すべて自分たちで担ぎ上げる。日数が過ぎて、食料が減って来た時に、一番ネックになる物、つまりこれが無くなったら山を降りざるを得ないというものは、味噌だったと言うのである。米や野菜が無くなっても、山の中で採った植物でなんとかしのげる。しかし、味噌が無くなり、口に入らなくなると、急激に体力が落ちて、仕事が続けられなくなるのだそうである。

 野菜にしろ味噌にしろ、日常生活では特に意識をしない食材かも知れないが、体のためにはとても大切な物である。不便な環境で体を酷使すると、そういう事に気が付く。気が付くと言うよりは、体が教えてくれると表現した方が相応しいか。そんな山登りは、得難い体験であったが、もはや自分が行なう機会は無いだろう。





ーーー8/20−−−  登山中に体が変わる


 今週も山の話をちょっと。

 若かった頃、友人が一人で南アルプスの縦走に出掛けた。その後日談が、けっさくだった。テント山行だから、食料持参である。タンパク源として、魚肉ソーセージを何本も持って行った。入山して二日くらいは、重荷を背負っての行動に体が慣れず、疲労がたまる。すると食欲も減退する。せっかく持って行った魚肉ソーセージだったが、臭いを嗅いだだけでムッとなって、食べられない。疲労が激しいので、少しでも荷を軽くしようと考え、ソーセージを捨てることにした。通りがかった山小屋のトイレに捨てたのだが、ビニールが被ったままでは良くないと思い、一本一本皮をむいて捨てたというのである。その後日にちが経つと、調子が出て来て体力が回復した。食欲も出てきて、何でも食べたくなった。魚肉ソーセージを捨てた事を悔やんだが、後の祭りだったという話。

 こんなバカげた話でも、本質を捉えている部分がある。山に入って行動を続けていると、体が変わっていくのである。すぐには変わらないから、短期の登山では、これを感じることは無い。重い荷を担いで山々を巡り歩く、数日から一週間以上にわたる縦走などで実感する事である。

 食事は、登山においても重要なものだが、初めのうちは美味い不味いに関心がある。言わば都会の生活の延長である。しかし、数日を経ると、食事の美味しさ、贅沢さは、関心外となる。この時点になると、前もって体に蓄えられたエネルギーは使い果たし、食事で得たカロリーだけが行動の源になる。食べた分だけ歩くことが出来、歩く分だけ食べなければならない。車がガソリンで動くように、人は食べた物で動けるという事が実感される。食べ物はガソリンであり、美味い不味いも、好きも嫌いも無い。それでいてエネルギーの源は、何でも有難く食べるようになる。

 余計な物がそぎ落とされ、とりあえず活動を維持するために必要な生体機能だけが残った、無職透明のような状態である。飢餓寸前の、際どいバランスの状態とも言えるが、感覚はかえって鋭くなり、思考はむしろ冴えてくる。これは一つの境地と言えよう。

 会社の山岳部の夏山合宿で、白馬岳から北方稜線へ入り、雪倉岳、朝日岳から小川温泉に下ったことがあった。その時は参加者が十数名と多く、二つの班に分けて行動したほど盛況だった。天気に恵まれて、楽しく充実した山行になった。二日目、雪倉岳の辺りで昼食を取った時のこと。パーティーの中の若い女性部員、本格的な登山は初めての娘さんが、ポツリと一言「食べて、歩いて、歩いて、食べて、の繰り返しなんですね」と言った。私は我が意を得たりと感じ、「そうなんだよ、それに気付くことが大切なんだ。山の上で行動を続けていくうちに、心身ともにシンプルになり、自然と一体になる。その感覚こそが、山登りの楽しさなのだ」と、先輩らしい説教を垂れた。




ーーー8/27−−−  登山で骨折


 20日に燕岳に登った。とはいえ、目的は山頂ではなく、燕山荘での仕事、つまり納品と打ち合わせであった。登頂はそのついでである。  

 今回は、登山口までバスを利用した。まだ夏山シーズンのさ中なので、登山口の駐車場に停められない恐れがあったからである。早朝、自宅から軽トラで有明山神社入口の登山者用駐車場へ行き、そこから朝一番のバスに乗った。

 登山の体力には、いささか不安があった。日頃、そこそこのトレーニングは行っているが、71歳の年齢だから、衰えの実感は否定できない。しかし、いざ登り始めれば、特に支障は無かった。燕山荘まで4時間ほどで到着したから、従来と変わりは無い。心配した足のツリも出ず、気分は上々であった。

 燕山荘に入り、売店のスタッフに製品を渡して、今後の進め方について意見交換をした。一昨年のシーズン初めに、新規のオリジナル商品として採用して頂いて以来、私の製品「象嵌物語」は順調に売れ続けてきた。その商品を携えて山荘まで登り、納品を果たし、山荘の人たちと交流を持つのは、私にとってとても嬉しい事である。仕事の用件は、順調に済ませることができた。居合わせた赤沼社長とも話ができて、楽しかった。

 時間に余裕があったので山頂を往復した。この日は曇りがちの天気で、ときおり霧もかかって視界が今一つだった。そのため、却って静かな山頂を楽しめた気がした。               

 最終バス16時15分である。これに乗り遅れると帰宅できないので、時間にゆとりを持って下山を開始した。下山地の中房温泉で、1時間ほどの空き時間を持たせ、有明荘で温泉に浸かる予定だった。

 下山も順調だった。しかし、油断は禁物。下山は登りよりも危険がある。一般の登山道であっても、岩場や木の根などの段差はつきものである。一歩間違えて踏み外し、転倒して足をくじいたりしたら、場合によっては歩けなくなる。そうなれば、遭難騒ぎとなる。ヘリの救助を要請するなどの事態になれば、それこそ一大事である。だから私は常々、どんな状況でも転ばないことを肝に銘じていた。若い頃、グループで登山をした際に、不注意な歩き方をして転ぶ輩がいると、苦言を呈したものだった。私自身、登山道で転んだことは、まず無い。相撲ではないが、足の裏以外が地面に着くことは、負けだと認識していたのである。

 そして私は、今回も登山用のストックを一本ザックに付けていた。登りも下りも使う予定は無い。ただ、万が一転倒して、歩行の支えが必要となった場合の用意である。過去の山行で、それに出番が来たことは、もちろん無い。

 山道を下りながら、幾つものパーティーを追い抜いた。いつもの事である。特にスピードを上げていたわけでは無い。むろん普段より慎重さを欠いていたわけでも無かったと思う。

 下山は最終段階を迎えた。登山口の建物が間近になった。先行する一組の男女は、私と同じペースで歩いていたが、もうじきゴールという場所でスピードを落とし、私に道を譲った。このタイミングで何故?と思ったが、気にも止めず先へ出た。最後の下り坂を右に曲がれば、後は平坦な道になり、数十メールで終了である。 

 その曲がり角で、前に出した右足が地面に着いた瞬間、突如スリップした。左足をついたまま、体がズーっと前に出て、大きく足を前後に開いた形で腰が引けた。既に踏ん張れない体勢の左足に体重がのしかかり、膝が曲がって地面につき、腰が踵に落ちた。向こう脛がつま先に当たるくらい、大袈裟に足首が曲がった。足先が左右どちらかに振れて、力をかわせればまだ良かったのかも知れないが、登山靴によって左右の動きが拘束されていたので、曲がる前後方向に力が集中したのだと思う。その瞬間、バキッと言うような音がした。

 慌てて立ち上がったが、足首に激しい痛みを感じた。後ろのパーティーが気になった。こういう時の心理は、不可解である。とにかく、あと数十メートルである。それくらいなら、何とか歩けそうだと思った。と言うか、何とか歩かなければならないという、悲壮感であった。右足の膝に手を置いて、少しずつ歩を進めた。登山口の施設のベンチにたどり着いた時、私の顔は苦痛で歪んでいただろう。

 時刻は15時10分だった。予定を変更し、その場所でバスの時間まで過ごすことにした。登山靴を脱いで、足をベンチに乗せ、じっとしていた。一時間近く経ち、バスの時間が近づいたので、数十メートル先のバス停まで移動した。この歩行も、痛みが激しくて辛かったが、備えのストックが役立った。

 バスに乗る時、前に並んでいた女子大生とおぼしき登山姿の娘さんが、ストックをついてぎこち無い動きをしている私を、おぞましい物でも見るような目付きで見た。それが、悲しかった。娘さんを批判するつもりは無い。ただ、私だっらどうしただろうと思った。辛そうにしている他人を目にして、心を寄せることが出来るだろうか? 思い遣りの眼差しで接し、「大丈夫ですか?」の一言をかけることが出来ただろうか。

 バスが中房の渓谷を下って行く。窓の外を過ぎゆく景色を眺めながら、完全に意気消沈している自分を感じた。事故寸前までの、成功物語のような一日は、完璧にチャラになって、激しい敗北感に打ちひしがれていた。

 バスが有明山神社に着き、駐車場に停めてあった軽トラに乗り換えた。左足首の痛みはひどいが、クラッチを踏むくらいなら出来そうだった。自宅まで5分ほどの、通り慣れた道である。カミさんに別の車で迎えに来て貰うという手もあったが、自力で帰ることにした。  

 自宅に戻り、カミさんに事情を話したら、ひどく驚いていた。取り敢えずシャワーを浴び、その後患部に冷湿布を張って貰った。湿布を張りながらカミさんは、「若い頃と比べると、ずいぶん足の肉が落ちたわね」と、嫌なことを言った。

 カミさんはパンパンに腫れた足首を見て、骨折じゃないかと主張したが、私は断固否定した。経験は無いが、過去に見知った情報では、骨折の痛みはこんなものではないはずた。それに、顔が青ざめたり、ブルブル震えたりする症状があるはずだと。カミさんは納得できないという顔で、「あなたは痛みの感覚が鈍いところがあるから」と、重ねて嫌なことを言った。

 翌朝一番、カミさんの運転で、整形外科医院へ行った。レントゲンの結果は、骨折だった。これには私自身が驚いた。そして、手術が必要かも知れないとのことで、市内の総合病院を紹介された。  

 紹介状と画像データの入ったCDを受け取って、その足で総合病院へ行き、整形外科の診察を受けた。 担当の若い女医さんは、手術をした方が確実で、治りも早いと言った。それで、即入院、翌日手術の運びとなった。  

 女医さんとの質疑応答の際に、「あなたが手術をするのですか?」と聞いたら、「はい、わたしが執刀しますが、男性医師が手伝いで入ると思います」と答えた。男女差別を意識した問いではなく、単に診断する医師と手術をする医師が同じ人なのかを聞きたかっただけなのだが、相手には失礼な印象を与えた質問だったかも。

 さらに、「骨折はもっと痛いと想像してました」と述べたら、「ケースによって痛みの出方に差はあると思いますが、足を骨折していながら車を運転したと言う話は珍しいですね」と言われた。同席していたカミさんは、たぶんしたり顔だったろう。  

 翌日、手術の時刻が来た。ベッドに寝かされたまま、手術室へ運ばれた。次々と通り過ぎる廊下の天井灯を見ながら、私はベン・ケーシーと言うドラマの、オープニングのシーンを思い出した。それを口にしたら、ベッドを押していた若い女性の看護師さん二人が、声を揃えて「それって何ですか?」と言った。「昔テレビでやっていた、米国のドラマで、ベン・ケーシーという名前の医師が主人公の、毎回感動のドラマだったよ。君たちは若いから、知らないだろうな」と答えたら、彼女らは「感動のドラマですって!」と、ケタケタと笑った。何が可笑しかったのだろう?  

 既に説明を受けていた手順に従って、手術の準備が進められた。手術は全身麻酔である。最後に医師から、「これから点滴に麻酔薬を入れるので、眠りに落ちます」と言われた。確かにそれまでと違う物質が、管を通って体内に入ったのを感じた。眠りに落ちる瞬間を見極めたかったが、それも叶わないまま、いつの間にか分からなくなった。外国では、薬剤による死刑があると聞いたことがある。このようにして永遠の眠りに就くのだろうか。

 突如目が覚めた。何事も無かったように、手術は終わっていた。全く痛みを感じずに骨折の治療をして頂いたのは有り難いが、言いようの無い不思議さは拭えなかった。

 事故の顛末から手術までのストーリーは、以上で終わる。

 ところで、カミさんは、下山終了直前の事故だったのが、不幸中の幸いだったと、何度も繰り返した。山の上の方で起きていたら、自力での下山は不可能だから、大変な事態になっていただろうと。私は、山の上ならこんな転倒は起こさない、と突っ張りたかったが、何の根拠も無い。心配と迷惑をかけた自分の立場を考えて、余計な発言は差し控えた。

 しかし、病室のベッドの上で、事故の原因についてよくよく考えたら、カミさんの指摘はもっともだし、その危険もあったと思い直した。

 今回の事故は、下山の最終段階で、急な下り坂が平坦な道に変わる所で発生した。ここで注目すべき点は、急な坂道を下る時と、平坦な道を歩く時では、歩き方が異なる事である。

 急な坂道では、歩巾が小さめで、垂直方向に近い足の動きになる。平坦な道では、一歩が大きく、水平方向の足運びとなる。急な坂道から平坦な道に変わる時は、歩き方のモードが変わることになる。特に速歩の人は、この変化が顕著となる。

 今回の事故を振り返れば、事故の直前は、下り坂の最後の局面で、連続して垂直下方に進む勢いが残っていた。その状態で、左足を後ろに残し、右足を平坦な道へ大きく振り出した。平らな道を歩くモードの歩巾である。その動作が誤りだったと思う。

 もし右足を小さく出していたら、滑ったとしても、体が後ろに傾いて、尻餅を付くだけだったろう。両足が揃っている状態に近ければ、重心は後にずれるからである。尻餅を付くのも嫌な出来事ではあるが、関節を痛めることは無い。

 仮にこれが平坦な道だっら、大きく一歩を踏み出して滑っても、又開きの形でズッコケるだけである。平坦な道を歩く時の重心の動きは、水平方向だから、下半身を押し潰すような力は働かない。

 今回の事故の本質は、下方への運動量が残っている状態で、水平方向へ大きく動こうとした事である。出した足が滑らなければ問題ない。しかし滑れば、下方への運動量が、残った軸足一本にかかる。既に前方に移動し始めた重心は、軸足に逃げ場を与えないからだ。この時軸足は、役目を渡そうとした反対側の足に裏切られ、中腰の状態にある。そこに下向きの運動量の大きな荷重がかかり、腰砕けとなり、無抵抗のまま押し潰されたのである。

 では今回、何故不用意に大きな一歩を出したのか?その背景には、長い下りの末に、ようやく安全地帯に戻り着いたと言う、安堵感があったかも知れない。喜びながら出した一歩だったのだろう。しかし、極めて微妙なタイミングながら、重大な危険を内在した状況に於いて、その安堵感は僅かに早すぎた。

 これを、下山地を目前にした、気が抜けた行為と見なされても仕方ない。しかし、山の上には起伏がつきものであり、稜線や尾根筋の登山路にも、急な坂もあれば、平坦な道もある。同じような危険は至るところに存在するのである。急な斜面から平坦な場所に降り着くとき、登山者がピョンと飛んだり、あるいは勢い余って小走りになるのは、よく見かける光景である。

 傾斜の違いに応じて、歩くモードをコントロールすることが大切なのである。特に、急な坂から平坦な道に移るときは、坂の下で一旦立ち止まり、平坦モードに切り替えて歩き出す、と言うような心掛けが必要だと思う。これが、登山歴50年にして起きた、今回の事故の教訓であった。